日記: 20181015_ワーホリやってないと不安
メンタルクリニックの帰り、赤羽駅前のミスタードーナッツで一杯のコーヒーをちびちび飲みながら考えている。
11月に入ったら9,10月分の傷病手当金の申請をしましょうと、流されるがままに返事をして1万円近いお金(診察料+診断書+睡眠薬)を払っていると、世の中は思考をやめてしまった人間をとことん地の底に叩き落とすために回っているような気がしてくる。ただそんな地の底を這いずる人間に対しても福祉はきちんと用意されていて、メンタルクリニックの紙だけでわりと簡単に福祉される。こんなことでいいのだろうか。
正直この1か月でかなり元気を取り戻したので「鬱は甘え」なんて言われても仕方ないと思えてしまう。俺は病気じゃないのかもしれない。客観的に見れば、旅行をしたり焼き肉を食べたりして、とても健全だから病んでますよって感じがしない。旅行や焼き肉が治療なんだと言われたら、それはそれで納得するんだけど、そんなことを言ってくれる人間は今のところいない(いてほしい)。
以前までは「鬱は甘え」という説には否定的に振る舞ってきたけど、自分の身に降り掛かってくると、やはり鬱は甘えではないかと、甘えと言われても仕方がないのではないかと、そんな気がしてくる。回復してきたからそんな風に感じるんだと思う。
働きたい感じがする。
ワーカホリックをやってないと不安。
どちらかというと、こういう欲求を持つ方が病的なのかもしれない。
それは《自分の頭で商売を作ることができないから、とりあえず会社や公共機関に要請されるがまま勤勉に手を動かしていれば安心だ》という、そんな心の動きを極端に裏返しさせた結果なのだと考えてみる。とすると、自分の頭で商売を考えられるようになれば、こういうワーホリ的不安から逃れることも可能なのかもしれない。
でもそんな、たとえば東大に入ったのに中退して事業を起こして成功するような、あのホリエモンとかそういう人種が持っている創造性、ビジネスに対する創造性が俺に期待できるのかというと、全然そんなことはない。そんな根拠はない(肯定する根拠も否定する根拠もない)。ただ、なにも考えず思考停止して公僕なんかをやった方が、よほど自分らしい感じがして現実感があるから、そっちの方が正しいような気がしている。誰か周りに他のホリエモンがいたら違うのかもしれないけど、あいにくそういうホリエモンはいない。あるいはホリエモンたちの出資者にでもなろうかと思っても金がない。だから俺は今のところホリエモンではない。
しかしこのワーホリ的不安から逃れないことには社会の底辺をのたうつことしか許されないのではないか。
とはいえ、別にホリックになるほどワークする必要もないはずなので、まずは職を得てから考えればいいと思う。安定した職があれば、それはそれで不安を感じないから、そもそも考えてもしょうがないことなのかもしれない。
今はその《次に何をするか》を考えることに注力した方がいいんだなきっと。