日記: 20181027-30_人生など
26日の夜から大学時代の先輩を家に泊めるということがあって、外面はわりと生き生きと過ごしていた。内面はドス黒く沈んでいた。
その先輩のツテで映像系のアカウントとオフ会で会うなどする。わたし以外の人はみんなバリバリおしゃれな動画を作ったりしている人で、要するにわたしは人生の岐路のようなものに見せつけられて打ちのめされてしまう。
彼らは恐ろしく映像制作に熱中していて、勉強熱心で、打ち込み方が自分とは比較にならない。何より楽しそうにやっている。映像はそうやって生活の余剰を丸ごと捧げないと良いものはできない、他の創作趣味を持っていたら集中できない、ということが再確認されて、自分にそれをやるだけの熱意があるか?ーない。ということが非常にハッキリ分かってしまう。それほどまでじゃない。俺は衝動的に映像を作ってしまうことはあるけど、でもこんな風に、同じようにやるか?ーやらない。この質疑応答にとても納得が行ってしまう。ここが自分とプロの映像が手を切るポイントだということがほとんど確信的になって、それでどうしようもなくやさぐれた気分になってしまう。
少なくとも今は。
音楽を聴きながら散歩をしていると、頭の中に映像が浮かぶことがあって衝動的にやりたくなる。だからたぶんそのうちやり始めることもあるかもしれないけど、でも自分はその度にもう映像は作れないという気分が強くなって途中で手も足も出させなくなる、そういうビジョンが簡単に思い浮かぶ。
自分はそのビジョンにずっと苦しみながら生きていくんだろうか。だとしたらその苦しんでいる間の不毛な時間でどれだけのものが作れるんだろうか。そんなことを考える。何も作れないような気もしてくる。
映像を作りたい気持ちはある。だから定期的に衝動に従って作るということはあるかと思うけど、では一体何歳になるまでそういうことをやるんだろう。30? 35? 40まではさすがにやってないような気がする。
こんな風にワナビ特有の悩みが炸裂した。
そして俺は今まで何を積み重ねてきたんだろう。ということをぐるぐる考えてしまう。小説、映像、いろいろやってはいるけど、全部中途半端で終わっているのではないか。何か一つのことに集中してそのジャンルでトップに立つような、そういう努力をしていないんじゃないか。過去にはしていたかもしれないけど、自分はそれを捨てるにあっさりとし過ぎたんじゃないかと(大学の研究室での研究とか)。そこに休職していることも重なって、
Q:俺何ができるんだろう?
A:何もできない。
という、同じ問題を何度も繰り返す絶望のクイズ番組が1分に1回は脳内で起こる。昨日なんかはそれで何も手につかず、ハルヒの1期をぼーっと見返しているだけで夜になってテキストを1、2枚めくるのが精一杯だった。
24、25歳という年齢はきっとみんな同じような悩み方をするんじゃないかと思う。早くプロになりたい、というやつだ。働いていない、努力をしていない人間にありがちな悩み方に自分もスッポリはまっていた。
そんなことをしている暇があったら勉強しろ。ーする。
小説を書け。ー書く。
1. プログラミングで就職する。
2. 小説を書き終わったらカクヨムに上げる。
こういう日常を淡々と積んでいく。
動画で仕事をすることになったら俺の内面はどうなるんだろう、という余念もあるけど、それはそれで流れに身を任せてしまえばいいような気もしている。
先輩がわたしの愚痴を聞きながら「何でも楽しいことやったらいいと思う」と言っていた。実にその通りだと思う。少し自分は考えすぎているような気もする。